「左右」と「兎角」

 先日、「とにかく」や「ともかく」という言葉を「左に右く」「左も右く」と書く形が、大正時代〜昭和初期のころのいくつかの文献で確認されることを書きましたが。

 「左に右く」「左も右く」以外に、辞書にも載っている「兎に角」「兎も角」と書く書き方があります。こちらについては由来が分かりました。「兎角」、つまりウサギの角は在り得ないことから、現実に存在しないものの譬えである仏教語に「亀毛兎角」という言葉が存在しているのです。

 「とかく」は様々な事柄を表す名詞、もしくは副詞であって、現実には存在しない意味を表す「亀毛兎角」とは意味が違うのですが、音が同じから混同されて、さまざまな事柄を表わす「とかく」に「兎角」と当てるようになったようです。

 この「兎角」を使ったことで特に有名なのは明治〜大正の文豪・夏目漱石。『草枕』の有名な冒頭にも「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい」とありますが、こんな感じで漱石は多用しました。「とかく」「とにかく」「ともかく」に「兎角」が使われるようになったことに、漱石の影響もあるみたいです。漱石は他にも独特の当て字を使用することが多いので有名で、他に「沢山(たくさん)」「場穴(ばけつ)」「浪漫(ろまん)」などもあります。今でもメジャーとはいえないものの、辞書には載ってるぐらいのレベルですね。

 「左に右く」「左も右く」を調べていた時には辞書に載っていなくて、かなり不安を感じましたが、この「とかく」を引くと、「左右」という当て字も載っていました。私が持っている電子辞書に収録されている小学館『大辞泉』と大修館『明鏡国語辞典』の二種類の辞書には載ってました。「とにかく」「ともかく」で引くと載っていませんが、辞書に載っていることでちょっと安心しました。

 しかし、当て字としては「兎に角」より「左に右く」の方が意味がまだ近いと思うんですが…やはり読みにくいからでしょうか。

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 さて、最初に紹介した仏教語「亀毛兎角」は現実に存在しないものの譬えと書きましたが、小学生時代前半を塗りつぶした名作ゲーム『ドラゴンクエストIII』のモンスターに「いっかくうさぎ」がいたことを思い出しました(笑)

 
 有難くも忝くも、仏さまは「亀毛兎角」のお言葉を以て、世の中の子どもたちと、かつて子どもだった人たち(私含む)に『ドラクエ』はあくまでフィクションですよ〜とお教え下さっているのでしょうか(笑)

 あと「亀毛」に関して、能〈鶴亀〉の亀の冠には毛が生えていたように思うのですが、これもフィクションなんでしょうか!?

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柏木ゆげひ | 日々雑感(未分類) | 11:19 | - | - | - | - |

太夫の勤める曲にあらず?

 能〈土蜘蛛〉についての解説文を書く事になり、とりあえず、手元にあった権藤芳一先生の『能楽手帖』(駸々堂、1979年)を開いてみました。

 何年も前に、ある囃子方の人が「〈土蜘蛛〉は、太夫の勤める曲にあらず、やで」なんて仰っていましたが、あまり能として高級な演目だとはされていません。

 しかしながら、単にショー的で派手と片付けられるだけの単純な曲ではなく、なかなか魅力的な演目だと思います。最初に登場する胡蝶の、どこか怪しい魅力もありますし、単なる蜘蛛の怪物としてみるのと、古代に大和朝廷に反抗した豪族・土蜘蛛の末裔としてみるのと、二重写しで見えてくるのはなかなか面白いです。なんといっても、ワクワクして見ることができるのは、舞台芸能として大切な部分です。

 ところで、先にも書いた「太夫の勤める曲にはあらず」という言葉。これは権藤先生によると、元の出典は江戸時代初期の紀州藩の能役者・徳田隣忠(1679-?)の『隣忠秘抄』なのだそうです。へぇ〜。

 徳田隣忠は『隣忠秘抄』のほかに、江戸時代初期には演じられなくなっていた〈石橋〉の復曲のことを記した『御世話筋秘曲』や、見聞きした話をまとめた『隣忠見聞録』とかの著作を残しているらしく、能楽史を見る上では興味深い人物のようです。

 とりあえず手に入る本はどんな本でも丁寧に読んでおくべきですね。『能楽手帖』のような入門書でも、いろいろ面白いことが書いてあるものです。

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柏木ゆげひ | 能・狂言一般 | 01:51 | - | - | - | - |

謎の「左」「右」(解決しました)

 さて、時間が空けば、前も書いた野々村戒三『能樂古今記』(春陽堂、昭和6年)を辞書を引き引き読み続けているのですが、「右」「左」の字の読み方が分からず、戸惑っています。

 最初に出てきたのが102頁。「観世四代史考」と題した観阿弥・世阿弥・十郎元雅・音阿弥の、観世座最初期の大夫4人の事跡についての文章なんですが。

 観世三世大夫・音阿弥(世阿弥の長男・元雅は歴代に数えない)について、大夫としての活動は広く知られているものの、作能や文筆についての事跡が見当たらないことについて、音阿弥の著書とされる書物が偽書であるとする吉田東吾『禅竹集』(大正3年)の文を引用した後、

「以上の言に由ると、左も右も音阿の遺書と稱せらるゝものに『花傳髄腦記』と『實鑑抄』との二本あるわけであるから」

云々と書いてありますが、この「左も右も」はどう読むんでしょう? 漢和辞典引いても出ていませんし、この場合は無理に「ひだりもみぎも」と読めてしまいそうですが、それだと意味がはっきりしません。

 仕方ないので放っておいて、分からないまま続きを続きを読んでいたら出てきました、謎の左右シリーズ第二段(笑) 安土桃山時代に活躍した金春流の素人の能の名手・下間少進について、『近代四座役者目録』の文章を引用したあと

「流儀の相違から來る、多少の僻目もあるらしく思はれるが、左も右く、よほで器用な才人で、色々な工夫もし」

云々と。この「左も右く」は「ひだりもみぎく」とは読みにくいので、なんらかの慣用表記なのだと思われるのですが、全く読めません…。

 漢和辞典で「左右」と引くと、日本独自の意味として「かれこれ」という意味があるので、これかな?とも思うのですが「○も○も」「○も○く」の文字に合わないので、決定打に欠けます。

 無視しても文章の大意が読み取れないわけではないのですが、気になります。

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 それにしても電子辞書で「左右」を引くのに「さいう」と入力してしまった私(笑) 一昨日に〈羽衣〉を謡ったためでしょう。「左右左、左右颯々の」という言葉を能の謡では「さいうさ、さいうさッさンの」と発音するからって。(※ほかの流派が今一つ知りませんが、私が習っている観世流ではそうなっております)

 私のドアホ!

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 サイト「能楽イラスト+++」を運営してらしゃるkyoranさんが、内田魯庵の著作にも「左に右く」という似た表現があることを見つけられ、そこから「左も右も」が「ともかくも」、「左も右く」が「ともかく」と読むのではないかとお教えくださいました。全くその通りだと思います。これで引っかかっていた部分が分かりました。ありがとうございます!

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柏木ゆげひ | 能・狂言一般 | 00:47 | - | - | - | - |

『能楽古今記』序言

 寝がけにコーヒーなんて飲むものではないですね(笑)

 目が冴えて寝られないので、先日読み終わった『近畿能楽記』(大岡山書店、1933年)と同じ野々村戒三著『能楽古今記』(春陽堂、1931年)を読んでます。こちらの方が出版が先なので、先に読むべきだったでしょうか。『近畿能楽記』の中にも「○○は能楽古今記に記したが…」といった表現もありました。

 その『能楽古今記』、最初にある序言の言葉に思わず頷きました。

「能樂の材料は、誰も知つて居る通り、古典的な物で、此の古典の解釋は、年を經るに随ひ、次第にむつかしくなつて來る。かくして、伊勢や、源氏や、平家、今昔、といつたやうな古典文學は、特殊の外蕕鮗けなければ、殆ど理解がむつかしいことになつて來る。尤もむつかしいから、やはりそれだけに研究も届いて來るわけではある。然し、能樂の鑑賞といふ點からいふと、唯だ研究して解つたといふだけでは不十分で、それに對する愛着といふものがなければならぬ。我々が、辧慶の談を聽くと、何となく餘所事でないやうな氣がするが、今の若い人たちには、恐らくさうではなかろうと思ふ。我々は、義經が出て來ると、何だか自分の周圍に居る人のやうな感じがするのであるが、能樂の鑑賞や研究には、さういつた一種の愛着といふものが必要である。所が、それが次第に薄くなつて來る。薄くなつて來た曉には、果して能樂が何ういふ風になるか、是れは疑問であらうと思ふ」

 能楽への取っ付きにくさのひとつを、的確に書いてらっしゃいますね。昭和6年時点でこう嘆いてらっしゃいますが、それから80年経った現在、この方向性でいうとますます大変なことになっているばかり。

 まず能楽の元になった話を知らない。それらの説明を入れることになるのですが、ただ説明されたたけでは「愛着」に至らないんですよね〜。ああ、難しい。

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柏木ゆげひ | 能・狂言一般 | 02:49 | - | - | - | - |

ドラマ『水戸黄門』の終了に新作能〈菊水〉を思う

 1969年から続くTBS系時代劇ドラマ『水戸黄門』が、今期で終了することが決定したそうです。

 水戸黄門と能といえば、もちろん歴史的な水戸徳川家の能という話もありますが、ドラマとしての『水戸黄門』の影響が見られる能として、昭和60年(1985)に神戸・湊川神社の大楠公(楠木正成)650年祭に作られた新作能〈菊水〉を思い起こしました。

 湊川神社は楠木正成を祀る神社で、演目名となっている「菊水」は正成の旗印であり、現在は湊川神社の神紋となっています。そのワキとして登場するのが「水戸黄門」、檜書店から出版された〈菊水〉謡本の役付にそう書かれています。

 史実として、水戸黄門こと水戸徳川家二代目藩主・光圀は『大日本史』編纂の作業中、勤皇家として正成の事績に感じることがあったようで、正成の終焉の地・湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」という碑を建て顕彰しました。その地が明治時代に神社とされたのが湊川神社になったというつながりがあり、光圀建立の顕彰碑は現存しています。以下にあらすじを紹介します。

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新作能〈菊水〉
 水戸黄門(ワキ)が楠木正成の誠忠に心を惹かれ、その跡を弔おうと、家臣(ワキツレ)2人を供として湊川を訪れると、老人(前シテ)に出会う。あたりの名所を尋ね正成討死のことを尋ねると、路傍の苔むす石塔を指し、これが正成の墓であり、今日がその命日だといい自分は正成ゆかりの者だと告げて消え失せる。(シテ中入、ワキもワキツレ1人を残して中入する)
 里ノ女たち(アドアイ)が正成の墓を掃除して回向していると、水戸黄門の家臣・佐々木某(残ったワキツレ)が正成のことを尋ねる。里の世話役(オモアイ)が現れて正成の奮戦や後醍醐天皇への忠誠を語り、この湊川で華々しく討死したことを聞く。佐々木某は主君光圀の命によって、「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を作り、正成を顕彰する。(ワキツレ・アイ中入)
 時は移り、王政復古し明治の御代となり、湊川に勅使(後ワキツレ)が遣わされ、楠木正成は神として祭られる。(アドアイ勅使の従者による触レあり)
 その報告祭の夜、武装凛々しい正成の霊(後シテ)が現れて、後醍醐天皇のお召しに随って天下に義の兵を起こしたが、この地にて数十倍の敵によって討死したことを語る。
 しかし、正成は今思いもよらず神と祀られたことを喜び(物著にて神の出立となる)、万代まで良き御代であれと舞い寿ぐのだった。
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 ワキが「水戸黄門」で、その供ワキツレが2人なのは、ドラマの『水戸黄門』において、お供の「助さん」「格さん」を意識しているからこそです。本文ではこの二人が「助さん」「格さん」であるとは明確ではありませんが、付録の間狂言詞章に、ワキツレの一人が「これは常陸の水戸家の家臣、佐々木の某と申す者にて候」とあるので、彼がいわゆる「助さん」こと「佐々木助三郎」であることが分かります。となると、もう一人が「格さん」こと「渥美格之進」と想像できる形となります。

 もちろん、新作能〈菊水〉の主題において、これが重要なポイントではないのですが、前場の最初にワキ「水戸黄門」からドラマの『水戸黄門』を想像してさせておいて、間狂言の段においてワキツレが初めて「佐々木の某」と名乗ることで、一種の観客サービスになっているのだと思います。

 佐々木助三郎も渥美格之進もあくまで創作の『水戸黄門』の登場人物で、モデルになった人物はいますが、微妙に名前が異なっています。佐々十竹(通称・介三郎)と安積澹泊(通称・覚兵衛)。さらに史実の光圀は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、漫遊したという史実はないので、「水戸黄門が旅をする」「供の名前が佐々木」というところから、この能におけるワキの造形は史実からではなく、創作の『水戸黄門』から取ったことが分かるのです。

 なお〈菊水〉制作の経緯は謡本によると、「大楠公六百五十年祭に際し、湊川神社並びに奉賛会の要望により、観世宗家に対し、御祭神の湊川殉節を能に作り、御神前に上奏致度との要望有り。宗家は神戸観世会に一切を委任され、神戸観世会はこれを謹作せり」とあります。

 特殊演出としては後シテの前半は黒頭に三ツ鍬形を付けた兜に、法被肩上ゲ半切・太刀で現れて修羅能の形式で進みますが、討死の語りのあと、物著して法被の肩を下し、兜を輪冠(菊と桜の花をつける)に替えて太刀を外して神扇を持ち、神と変化して〈養老〉に似た舞を舞います。なお養老の瀧は菊水と関連があるそうで、全くのこじつけでもないようです。

 私は〈菊水〉を2003年に能(前シテ:藤井完治師、後シテ:上田貴弘師)で、2006年に舞囃子(吉井基晴師)で拝見しています。どちらも湊川神社神能殿にて催された「楠公祭奉祝能楽鑑賞会」でした。善竹忠亮師のブログによると、湊川神社神能殿閉館直前の2008年にも上演されたそうです(http://blog.zenchiku.com/?eid=819292)が、湊川神社の能舞台が休館した今、もう再演されることはあるのでしょうか。

 新作能には作られたものの、再演の機会がないものが多いのですが、この〈菊水〉は神戸観世会が制作して、観世宗家も関わった関係からか謡本が出版され、また制作依頼元の湊川神社が能舞台を持っていたので、昭和60年制作のものであるにも関わらず、平成10年過ぎから能を見始めた私も実演を見ることができています。かなり幸運な新作能といえると思います。

柏木ゆげひ | 能・狂言一般 | 10:04 | - | - | - | - |

能本をよむ会「大江山」

 今週水曜日は能楽師で同時に学者の味方健先生「能本をよむ会」へ行ってきました。会場はJR京都駅前のキャンパスプラザ京都。参加者はかなり多く50人近くいたんじゃないでしょうか。お年を召した方が多いですけれど、普通に研究的な話なども入るのに、味方ファンのレベルの高さを物語っているのでしょうか。

 今回のテーマは〈大江山〉。源頼光による大江山の酒呑童子退治の話を仕立てた能です。味方先生は鬼退治ものとして「たわいもない」と仰りながらも、最初が一声から始まることや、地謡の中に小歌ノリがあることなど作者不詳ながらいい加減な人物ではないとおっしゃる。酒宴のあたりは山伏と童子の衆道の関係を臭わすし、修辞も凝っていると。

 私自身の感想としては〈大江山〉は学生最後にお稽古を受けた謡で、自演会でも謡った思い出深く、好きな曲だけに、味方先生がそう仰ってくださるとなんだか安心します(笑)

 童子と山伏、天狗というと〈花月〉の話などもありますが、そのあたりのアヤシイ雰囲気が、能としての奥行にもつながっている気がします。実際に上演すると、ワキが人数が多くて大変だそうですけれど、、、。

 配布資料の本文は野上豊一郎『解註 謡曲全集』のもので、喜多流の詞章でした。そんなわけで、観世流とは本文が違う部分もあるのですが、そこから明和改正謡本批判につながったりするのが凄いです。

 あと渋川本『御伽草紙』の「酒呑童子」の絵もコピーして載せてらっしゃいましたが、これに登場する酒呑童子の恰好が、長袴に見えるところから、能〈大江山〉の替装束の場合と似ていて、なんらかの関連があるか、とのこと。

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 学問的な話だけでなく、実演家としての実感にあふれたこんな謡曲講義はほかにないと思います。〈大江山〉に直接関係ない話も結構あるのですが、それはそれでいろいろと興味深い話ばかりで。

 次回は8月17日(水)14時半〜、曲は〈楊貴妃〉とのことです。
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柏木ゆげひ | 行ってきました | 17:29 | - | - | - | - |

「山會出」って何だろう?

 今は野々村戒三『近畿能楽記』(大岡山書店、1933年)という本を読んでいます。

 古い本なので内容的にも時代遅れな感じもありますし、今となっては説が変わっているようなものも多いのですが、関西の昔の話を取り扱っている本としては貴重なので読んでいます。特に今はなき明治から昭和の関西能楽界の様子を、実際に見聞きしている文章という意味で力強さがあります。

 しかし古い本なので、今は使われないような難しい書き方がされていて、時々辞書を引きながらの読書です。古い史料の引用部分ならともかく、まさか地の文で辞書を引くことになるとは(笑) 例をあげると

「これが恰度勧進能の始まつた頃なので」
「キリの『石橋』をば、『七騎落』の次にくり上げ、四番目に直して、演じて畢つた。這間の消息に就いて『舞曲拾葉抄』の著者は、左の如く語つて居る」
「その淺野榮足が、怎ういふ人で」
「然し、此の至盛は病身で、捗々しく御能御用を勤むる事も出来ない所から」

という感じです。まあ、読めなくてもだいたいの意味は推測がつくんですが、念のため辞書を引いているという感じです。
 これらは良いとして、読んでいて詰まったのが『福氏門人録』という書物の紹介の部分。福氏、つまり福王家の門弟録なんですが、「中には、姓名のみの者もあるが、大部分は、住處、死亡年月日、山會出の年月などが、記されて居る」とあるんですが。

 「山會出」って何でしょう。一門の定例の会合か何かと想像したんですが、紹介されている中の「酒井市左衛門」という人の場合、「寶永元申年九月ヨリ山會出。元禄午極月十七日門入」とあって、入門より「山會出」の方が早い人などもあって、分からない。

 本のどこにも説明はないし、辞書にも載っていません。ネットで検索してみても小沢一郎氏の政治資金管理団体の「陸山会」関連ばかりひっかかりますし(苦笑) どなたかご存じの方がいらっしゃればお教えください。

※のちにご指摘いただきましたが、宝(寶)永(1704〜1711)よりも「元禄」(1688〜1704)の方が先なんで、「入門より『山會出』の方が早い」というのは、私の「文章に先に出る方が早い年号」という思い込みによる勘違いでした。となると、「一門の定例の会合か何か」なんだと思われますが、決定的なことはやはり分かりません〜。
柏木ゆげひ | 能・狂言一般 | 00:57 | - | - | - | - |

大川瀬住吉神社の能舞台

大川瀬住吉神社能舞台
 私が育った街は新興住宅地が人口の大半を占めている街で、古典的・伝統的である能楽とのゆかりなんてないと思っていたのですが、先日、大阪の観世流の名門・大西家の御先代、大西信久師の『初舞台七十年』(1979年)という本を読んでいたら、大西家一門の坂口信男師による、私の育った街にある神社で奉納能が行われている文章が収められていたので、びっくりしました。

 以下引用。

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大川瀬の能

 三百年の伝統を持つ、兵庫県大川瀬住吉神社(石原幸雄宮司)の、能狂言奉納が昭和四十八年四月十六日に、同社の舞台で催されました。
 この、奉納能のことの起りは、昔、大川瀬地区と隣地区との間に何かの争いが生じて、遂に訴訟沙汰になりました。その時、大川瀬地区の人々は、住吉神社に「この度の訴訟に勝たしていただけば、十年毎に能を奉納します」と、願をかけたのだそうです。そして、その訴訟に勝ったので、この行事が始まったといわれています。
 以前は、手塚亮太郎師が奉仕していましたが、戦後は、信久師が十年毎に奉仕しています。
 当年は前回からでは十三年目になりますが、これは住吉神社が重要文化財に指定されたのを機として、社殿修復を行った都合で、三年おくれになったのだそうです。
 当日は信久師一門および関西の三役方一行五十余人の大勢で奉仕しました。
 信久師の翁に始まり、乱・双之舞まで、能六番に、見所は堪能しきっていました。特に智久師の長男礼久君(五才)、次男孝久君(四才)の小袖曽我、相舞には、見所の拍手が、会場をかこむうっ蒼とした杉木立に、しばしなり止まずにこだましました。
 約千平方メートル程の境内には、地元の氏子八十人余をはじめ、阪神間の愛好者等、六百人程の人々が見所を賑わしていました。
 翁が終る頃には、朝からの雨も止み、見所は枡席にビニールを敷き、重詰めのご馳走をつまみ乍ら酒をくみ交わすなど、伝え聞く昔の勧進能さながらの風景でした。
 同席した寺本博行君は「野外で能を見るのははじめてです。田楽の盛んな時代には、野外で村の人達に鑑賞されたのが本来の姿だったと聞いていますが、今日はよい勉強になりました」と、しみじみ、古典の世界にひたっていました。
(坂口信男記)
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 38年前の文章ですから今より随分景気も良かったのでしょうが、〈翁〉付きの能6番の奉納能ですから随分豪華だったのでしょうね。坂口信男師が番組も記録しておいて下さっていればより嬉しかったのですが。

大川瀬住吉神社能舞台
 さて、この大川瀬の住吉神社。機会があったので、訪ねてみました。新興住宅地が中心となった今の街の中では外れといって良い場所にある神社なのですが、本殿は国の重要文化財、能舞台も県の文化財に指定されているという立派な神社で、鳥居も最近新調されたのか森の中で赤く映えていました。

 調べても電話番号など連絡先が分からず、いきなり訪ねて、しかも社務所で何かの宴会中だったにも関わらず、快く対応していただけて、ありがたかったです。天気が悪かったので、雨風よけの戸を開けて舞台の様子を見ることは叶わなかったのですが(連絡をくれたら開けても良い、と仰っていただけましたので、次の機会を狙ってます)、今でも大西家が10年ごとに奉納能を行っているそうで、次回は再来年の平成25年の予定とのことでした。

 なお、市のホームページによると、「本来は桁行1間梁間2間の舞殿として建てられた物に、隣接する長床を廊下で結んで橋掛かりとし、能舞台として使っている。創設年代は不明であるが、社記に『享保11年(1726年)舞堂修繕』とあり、柱が大面取りであることから江戸初期と考えられる。能楽奉納の始まりは寛文年間(1661年〜)からであると伝える」と。

 再訪までには市史を見るなど、より下調べをしたいな、と思っています。とりあえず名生昭雄著『兵庫県の農村舞台』(和泉書院、1996年)という本に少し載っているという情報を得たので、それを取り寄せてみました。届くのが楽しみです。
柏木ゆげひ | 行ってきました | 18:13 | - | - | - | - |

伏見稲荷大社の能舞台

伏見稲荷大社
 伏見稲荷大社と能といえば能〈小鍛冶〉の舞台です。すでに先々月の話ですが、伏見稲荷大社に初めて行ってきました。すると本殿の脇にどう見ても能舞台としか言えない神楽殿を見つけて興奮していた私。

伏見稲荷大社
 そして行ってからひと月あたりも経った頃になって、行く前から少しずつ読み進めていた大阪大学の天野文雄教授の著書『能楽逍遥(下) 能の歴史を歩く』という本の後半に「伏見稲荷大社の能舞台〜建造の経緯とその後の歩み〜」という論が収録されていたことに気付いて凹みました(苦笑) バカ丁寧に最初から順番に読んでいたのですが、せめて目次を気をつけて見ていれば…、と悔やみました。

 以下、天野先生の本によって書いていますが。

 伏見稲荷大社の能舞台は明治15(1882)年にシテ方金剛流の金剛謹之輔(今の金剛永謹家元の曾祖父)とその後援者が、当時行われていた伏見稲荷大社の修復にあわせて奉納したもの、とのことです。謹之輔が伏見稲荷大社に能舞台の奉納を思い立った具体的な理由は分からないものの、彼が〈小鍛冶〉の芸に悩んでいて稲荷の長者社に籠ったところ、「白頭」の小書(特殊演出)で演じられる「狐足」という足遣いを感得したというエピソードがあるらしいのは面白かったです。

 翌明治16年9月15日には舞台披きの能が行われ、金剛流の大パトロンだった大阪の両替商・平瀬露香の能〈小鍛冶〉、同じく観世流の大パトロンだった伊丹の酒造業者・小西新右衛門の能〈道成寺〉、そして片山家6世の片山晋三による能などが演じられたとのこと。平瀬・小西のふたりは、大阪の商人と能ということで調べたこともあるので、嬉しくなってしまいました(^^) ただこのとき、能舞台奉納の中心人物であった金剛謹之輔がシテをつとめていないことがちょっと気になりますが……。

 以来、春秋に定期的に奉納能が演じられるなど伏見稲荷大社の能舞台は使用されていたみたいです。中には3000人もの見物客を集めたという昭和5年の梅若万三郎・六郎兄弟による奉納能などもあったようですが、昭和34年の稲荷大社修復の際に、能舞台は西側後方に移転、同時に橋掛かりが舞台に対して直角になるように変更され、名前も「能楽殿」から「神楽殿」へと改められて以来、能が演じられた記録はないそうです。

(茂山千五郎家・忠三郎家による狂言奉納は行われているようですが)
柏木ゆげひ | 行ってきました | 22:14 | - | - | - | - |

公演情報の入力

 「能楽の淵」公演情報カレンダー(http://funabenkei.daa.jp/08/koen.html)に公演情報を入力・更新したものを、お知らせさせていただきます。もともと入力していた催しについて詳細を追加したものも含みます。

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